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2024.10.21
ふるさとの伝説・民話 その⑤

読み聞かせ稿本「ふるさとの昔むかし」 庄川町編 榎木淳一著
瓜わりしょうずと金屋ねぎ
金屋の岩黒地内に、「瓜わりしょうず」という清水があります。この清水は、礪波地方では、めずらしい霊泉としてよく知られています。
雨の降らない、暑い日照りが毎日つづいても、今まで一回もかれたことがありません。また、この清水は、夏はつめたく、冬は、川の水よりもあったかく、深い雪をかきわけ、掘りおこした金屋ねぎを洗うのにも、とてもよいと、付近の人から喜ばれていました。
それは、今からおよそ六〇〇年ほど前のことです。
岩黒の奥に、「杉谷」という山があって、そのふもとに、そまつな小さな家が一軒ありました。
そこへ、京都の本願寺(ほんがんじ)という大きなお寺から、「綽如(しゃくにょ)上人」という、えらいお坊さんがおいでになり、住んでおられました。
ある日、上人は、井波や金屋の村々へ、尊い教えを広めようと、馬に乗りお出かけになりました。ちょうど、岩黒までおいでになったとき、しばらく休憩されることになりました。
付近の人々は、仕事の手を休め、尊い上人の教えを聞こうとして、まわりに大勢集まってきました。
そのとき、馬のひづめが突然、土の中に沈みました。するとどうでしょう。ひづめのあとから、きれいな清水がコンコンとわき出たではありませんか。
この不思議なできごとに、村人は手を合わせ、ナンマンダブツ、ナンマンダブツと、唱えました。そして、村人の一人が、上人におあげしようと持ってきた瓜を、その清水に冷やしました。
すると、瓜は自然にさけ、冷たくてとてもおいしそうになりました。上人は、大変喜んで、お召しになりました。
そうして、その清水を瓜が自然に裂けたことから、「うりわりしょうず」と名づけられました。
その後、うりわりしょうずの回りには、緑の木々が植えられ、休憩用の腰かけも置かれ、村人のすてきな、いこいの場となりました。
このうりわりしょうずの近くに、久ぞうという者が住んでおり、すすんでここの掃除番を引き受けておりました。
しゃくにょ上人の尊い教えは、近くの村々にだんだん広がって、しばらくの後、井波に立派な御坊が建てられました。これが、瑞泉寺(ずいせんじ)のはじまりです。
それから一〇年余りたったある日、久ぞうの家へ、見慣れない じいさんとばあさんがたずねてきました。
「おらあ、庄川の東の”いくりだん”の者で伊助という者じゃが、きょうは、どうしてもお頼みしてえことがあって、ばあやと一緒に来ましたのじゃ・・・・・。」
と、伊助夫婦は、庭先で頭を深々とさげ語りました。
伊助の話によると、村の谷の水、一ヵ月余りつづいた日照りで、まったく流れなくなり、村の人々は、田や畑どころか、飲み水にさえ困っているということです。
そのおまけに、伊助の一人娘が、病気になり、高い熱が七日もつづき、まったく治る見込みがないということです。娘は毎日、毎日
「つめたい水がほしい!! おいしい水を飲みたい。」
というが、村にはそんな水、どこにもないので、ほとほと困り果てているということです。
伊助は、手を合わせて、
「どうかお願いじゃ、うりわりしょうずの水を、このかめに、一杯わけてくだはれ!! それと、もう一つお願いがありますのじゃ!! あそこに植えたる”ねぶか(ねぎのこと)”四、五本わけてくだはれ!!このとおりじゃ」と、いって二人は、頭をいっそう地べたにすりつけるように、手を合わせました。
久ぞうは、それを聞いて、
「わかった。わかった。そんなことぞうさもないこっちゃ。しばらく待ってくだはれ。」
と、立ち上がろうとしましたが、久ぞうは、何か不審そうに、また、たずねました。
「あんたたち、半日もかかる遠いとこから、またなんでいらはったのじゃね?」
伊助は、しばらくしてこたえました。
「娘の病がひどうなってから、わしとばあやは、三日、三晩、神仏さまにお祈りしたのじゃ。すると、よんべの真夜中、弘法大師さまが、夢の中にあらわれ、申された。」
「娘のほしいという水は、庄川の西、金屋村の岩黒というところにある。そこのしょうずは、一番よい。それから、娘の高い熱をさますには、同じ岩黒にはえている、生きのいいねぶかを、細かく切って食べさすことじゃ。あそこのねぶかは、むかし、むかし、わしが種を授けてやったのじゃ。」
「と、申され、消えはったのですちゃ。」
この、弘法大師の話を聞かされた久ぞうは、二人をさっそくねぎ畑へ案内しました。そして、一番生きのいいのを一〇本ばかり堀おこし、近くにあった「こも」にくるくると巻いて伊助に渡しました。
それからさらに、久ぞうは、二人をうりわりしょうずに案内してゆきました。
「さあ、伊助さん。このしょうずは、なんぼ汲んでもなようならん。すきなだけ飲んでくだはれや。そして、娘さんの分もいっぱい持っていきなはれ。」
伊助夫婦は、ナンマンダブツ、ナンマンダブツといいながら、しょうずを飲み、持ってきた水がめにもいっぱい水を入れました。
願いがかなった伊助は、喜びながらいいました。
「そんで、代金はいかほどおあげすりゃいいかの?」
と、たずねました。
久ぞうは、いやいや、と手をふりながら、
「そんなもの、いいですちゃ!! 弘法さまからいただいた、ねぶかの種も、なんかの因縁じゃ。今じゃ、金屋では、どこの家でもでっかいと作っとるわ。」
「それより、はよう帰って、娘さんの病を治してあげてくだはれや。」
これを聞いた、伊助夫婦は、久ぞうの親切に大変感謝しました。そして、涙をうかべて、しょうずの傍らにあるおさい銭箱に、チャリン、チャリンとおさい銭を入れ、帰りじたくをしました。
久ぞうは、なお親切に、二人を庄川の藤かけの渡し場まで送って行きました。そうしてもう一度、娘さんが一日も早く元気になるよう祈りました。
それから、暑い夏もようやく過ぎ、およそ二ヶ月たちました。うしろの岩黒の山のもみじがあかくなり、庭のゆずも黄色く実りました。
そんなある日、伊助は、元気になった娘をつれて、再び岩黒へやってきました。前に受けた、久ぞうの親切に、お礼を言うために訪れたのでした。娘は、年ごろにちかい、うつくしくやさしい子で、久ぞうにていねいにお礼をのべました。
三年後、この娘が、久ぞうの働き者の息子の嫁になったのも、弘法大師さまのお引き合わせだったのでしょうか。
「金屋村、岩黒村は、いにしえより、ねぎ、ゆずの名産地としてよく知られ、ことにねぎは、宮中や江戸将軍家大奥で、もてはやされときには、ねぎだけを運ぶ早馬が、越中から京や江戸へ向かった。」
と伝えています。
また、今から一七〇年ほど前の古い記録に、金屋岩黒村に、「ねぶか」を売る家が八四軒あったと記されています。
※ このページは、読み聞かせ稿本「ふるさとの昔むかし」 庄川町編 榎木淳一著 をもとに作成したものです。