南からみた砺波平野

“庄川とは”

下流の砺波平野一帯は、米の一大生産地で、支流を含めた上中流では、豊かで安定した水量と、山間の地形を利用した水力発電がおこなわれています。中流は砺波市庄川町金屋付近に出るまで深く刻まれた谷間を流れます。この区間は「庄川峡」とよばれ、景勝地として知られています。 上流には世界遺産に登録された白川郷・五箇山の合掌造り集落があり、下流の砺波平野には特徴的な散村(散居村)がみられます。河口域は、富山新港を中心として隣接する神通川河口域とともに重化学工業が発達しています。

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庄川の大特徴

富山県の 河川の長さ ランキング

神通川
120 km
庄川
115 km
黒部川
85 km
小矢部川
68 km
常願寺川
56 km
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富山県で2番目に長い川

庄川は、神通川に次ぐ長さで流路延長は 115km。岐阜県高山市の烏帽子岳(標高 1,625m)と山中山の山中峠(標高 1,375m)に源を発し、岐阜県内で岐阜県内で尾上郷川、六厩川、大白川等を合わせて北流し、富山県に入り南砺市利賀村で利賀川を合わせたのち、砺波平野に出て射水市大門で和田川を合わせて日本海に注ぎます

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流域面積の 93%は山地

庄川の流域面積は 1,189k ㎡ですが、岐阜県側の方が割合が高く、93%が山地です。平野はわずか7%にすぎません。富山県側では庄川扇状地のイメージが強いですが、ほとんどが山地帯を流れていることになります。

山地93%
平野7%
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広大な扇状地

砺波平野は、庄川と小矢部川による扇状地でつくられています。庄川扇状地は、山地から庄川が運んできた岩石や砂礫によってできています。扇状地の中程の扇央部では、砂礫層が厚く、水の浸透率が高いのが特徴です。

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数千年で流路が変遷

奈良時代から江戸時代にかけて流路が徐々に東に移ったことが古記録からわかっています。このことを「庄川の東遷(とうせん)」ともいいます。しかし、扇状地がつくられた数万年の間に庄川の本流は幾度となく氾濫を繰り返し、西や東に流れを変えていたことでしょう。

庄川の東遷

現在の川の位置
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治水・利水の歴史

人々は古くから庄川の水を利用してきました。久泉遺跡の発掘で見つかった奈良時代の大溝は、庄川の本流または分流から取水した農業用水と考えられます。 鎌倉時代以降には平野に用水が整備され、江戸時代には血管のように用水網が発達しました。また、庄川はたびたび氾濫し洪水を起こしたため、江戸時代に加賀藩が松川除堤防の整備をおこないました。

庄川の変遷

庄川が現在の川筋に固定されたのは、江戸時代に入ってからのことです。 それまでの庄川は、幾筋もの分流となって砺波平野を流れていました。

庄川の流路変遷と治水

奈良時代(8世紀ころ)

庄川の主流は、平野の北西を流れて小矢部川に合流し、上流は「雄神川」、合流点の下流は「射水川」とよばれていました。大伴家持が雄神川の河畔で歌を詠んだころのことです。

室町時代(14 世紀末ころ)

婥如上人が井波別院瑞泉寺を建立を決意した文書によると、庄川の本流は井波の北から西に向かって流れていたことがわかります。庄川本流は高瀬川とよばれ、小牧村(砺波市庄川町小牧)から高瀬村(南砺市高瀬)に向かって流れ、川崎村(南砺市・小矢部市)で小矢部川に合流していましたが、1406 年(応永 13年)6 月に大洪水が起こり、本流は高瀬川から野尻川に移ったといいます。その後、中村川(現在の岸渡川(がんどがわ)へ流れ込む流路)、荒又川(現在の荒又川へ流れ込む流路)、千保川へと本流が移り変わりました。

安土桃山時代(16 世紀末ころ)

1586 年(天正 13)に発生した天正地震によって、庄川の赤岩付近で山が崩壊し、庄川がせき止められて天然のダム湖ができました。その後、土石流が起こり、分流に流れ込み、雄神神社の社地が押し流されました。その分流でできた中田川と当時本流であった千保川は、洪水のたびに入れ替わったといいます。

江戸時代(17 世紀ころ)

加賀藩は庄川の本流を一本化する工事に着手します。当時、千保川の下流にあった瑞龍寺がたびたび洪水の被害を受けていたからです。千保川と中田川のうち、千保川を締め切り、庄川を中田川に一本化し、水害から高岡を守る堤防工事が行われました。のちに堤防(川除け)の根固めとして松が植えられたことから「松川除」とよばれるようになりました。

トピック

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庄川流域図 (国土交通省国土数値情報 河川データ、流域界・非集水域データより作成)