歴史

 庄川はかつて雄神川と呼ばれており、今とは異なる流路で砺波平野を流れていました。洪水の多かった庄川では、藩政時代行われた治水工事の記録が数多く残っています。古くから農業用水として使われたほかに、昭和初期までは木材の水運にも利用されていました。ここでは庄川と共に暮らした人々の歴史を紹介します。

〈江戸時代以前〉

748年(天平20年)地方の役人であった大伴家持が砺波地方を訪れた。
1586年(天正13年)庄川上流(岐阜県白川村)が震源の大地震によって、庄川町金屋の東の山がくずれ、庄川をせき止めた。20日間後一気に流れた水により、今の川筋ができた。

大伴家持が歌を詠んだ庄川

 大伴家持は奈良時代(710~784)の貴族で歌人です。現存する日本最古の歌集『万葉集』に多くの歌が収録されているほか、平安時代の歌の名人を選んだ三十六歌仙の一人に数えられ、小倉百人一首にも歌が収録されている日本の歴史上有名な人物です。  家持は地方の役人だった748年(天平20年)の春、砺波地方を訪れました。その時、雄神川の川辺で葦附という海藻を採っている少女たちの姿を目にし、家持はそこで歌を詠みます。

見渡すと雄神川では赤い裳裾の色が水に移り、紅の色が美しく映えている。あれは少女らが葦附を採るのに川の瀬に下り立っているらしい

 春の自然の中で少女たちの赤い着物が水面に映り紅色に染まる様子は、きっと美しかったのでしょう。  雄神河というのは、庄川と呼ばれる以前の川の名前です。昔は、今と川の流れが違っていました。雄神の庄という集落から小矢部川の合流点までが雄神河、そこから下流を射水川 と呼んでいたそうです。葦附は海藻の一種で、かつては食用でしたが、現在では数が少なくなり一部地域では天然記念物に指定されています。 ひとつの歌から、現在とは違った庄川の姿が見えてきますね。

天正の大地震(てんしょうのおおじしん)

 1586年(天正13年)の11月に、東海・北陸を中心とした大地震が起こりました。越中や飛騨地方では山崩れが発生し、多くの死者を出しました。庄川上流の白川一帯は帰雲城の内ケ島氏が治めておりましたが、この地震の山崩れによって一瞬にして城下町もろとも一族、家臣が土砂に埋まり消滅してしまったことからも、どれほど大きな地震だったかが分かります。地震は近畿地方にまで及ぶ広い範囲で大きな被害をもたらし、京都や奈良でも寺社が倒壊するなどの被害がありました。  庄川流域では山崩れによって各地で大きな被害がありました。金屋岩黒の東山が崩れてその土砂が庄川をせき止め、そのあふれた水が激流となって庄川の川筋を変えてしまいました。このときにできた川筋が現在の庄川です。  この地震で川の流れは二つに分かれ、西の流れが千保川、東の流れが庄川となりました。この激流によって雄神神社の周辺では多くの家や人が流され、雄神神社も東西に分かれ、ご神体も社殿とともに流されてしまいました。後にここを訪れた加賀藩2代藩主前田利長が境内に残った島を見て「水の神」である弁財天を祀るよう命じたといわれます。  地震による水害は、庄川流域の信仰とも深く関わり、これを伝える庄川弁財天社の33年に一度の式年祭は今日も受け継がれています。  この大地震は、民話や文献などによって庄川の人々に語りつがれてきました。詳しい地震の情報は、富山県立図書館にある資料でも見ることができます。

大正10年頃の弁財天島

〈江戸時代〉

1592年(元禄元年)この頃より加賀藩で用いる木材を五ヶ山より伐り出す。伐り出した木材は川の流れを利用して下流へ運ばれた。
1594年(元禄3年)加賀藩前田利家より五ヶ山の材木輸送について庄金屋に材木の管理を申し付ける。金屋には川下げされた木材を一時的に貯めておく御囲場があった。
1653年(承応2年)洪水が起こり、千保川が本流になり、下流にある高岡の瑞龍寺が水害にあうことが心配された。
1670年(寛文10年)松川除の工事が始まった。
1714年(正徳4年)松川除が完成し、庄川は中田川の川筋を流れるようになった。
1772年(明和9年)雪どけ水で増水した庄川が、松川除をくずし大洪水になり、砺波平野一帯に大きな被害をあたえた。このとき、元の千保川が本流となった。
1831年(天保2年)大洪水により、松川除が大破した。

庄川の治水工事と加賀藩

 庄川流域は長い歴史の中でたびたび洪水の被害にあってきました。そのため庄川の周辺に住む人々にとっては、水害が起こらないようにする治水が重要な課題でした。時代をさかのぼると、庄川が今のような流れに整えられた始まりには、加賀藩が深く関わっています。  江戸時代前期、加賀藩2代藩主前田利長は高岡を軍事・交通のための重要な地域と考え、都市開発を進めていました。その後3代藩主前田利常は亡くなった利長の菩提寺として瑞龍寺(1663年(寛文3年)完成)を高岡に建立しました。  その頃庄川は天正の大地震(1586年(天正13年)に発生した大地震)によって以前からの千保川筋と新たにできた中田川筋(現在の庄川)に分かれていました。1600年半ばになると千保川を流れる水量が増えてきたため、千保川が付近を流れる瑞龍寺にも洪水の被害が及ぶことが心配されました。そのため利常は、庄川の流れを中田川に集めることを考えました。  様々な中止の要望もありましたが、1670年(寛文10年)、川の流れを中田川に集めて、上流の野尻川、中村川、新又川を締め切る弁財天前御普請が始まりました。毎年のように洪水が続く中での大変な工事だったため、工事開始から40年余り、砺波、射水、氷見3郡から100万人を超す労力を費やして1714年(正徳4年)にようやく完成しました。  その後も大きな洪水が起きたことから治水工事が続けられました。その後1807年(文化4年)には石堤の堤防がくずれないように数百本の松を植える工事もおこなわれました。これが後に「松川除」と呼ばれるようになった名前の由来です。  この工事によって洪水被害が減少し、川跡が新田として開発され、豊かな砺波平野に広がりました。

瑞龍寺

〈明治時代以降〉

1874年(明治7年)廃藩により規制されていた伐木が自由になる。高山の材木商により飛騨の山から伐採された建築材・用材が庄川に川下げされ、庄川の流送が盛んになる。
1896年(明治29年)大雨により洪水がおこり、堤防がやぶれ、あふれた水は千保川へ侵入、下流の高岡市が大きな被害をこうむった。
1900年(明治33年)高岡市周辺の洪水を防ぐため、小矢部川と庄川の分離工事が開始された。
1912年(大正元年)小矢部川・庄川分離工事が完了した。
1915年(大正4年)青島貯木場に鉄道が敷設され(砺波鉄道青島町駅)、下流の伏木まで川を利用して流していたものが陸上輸送に替わる。(中越鉄道福野駅経由)
1915年(大正4年)東山見村長である上田又一が金屋地区に用水を引く計画を県知事に申請した。
1916年(大正5年)浅野総一郎が小牧ダムの建設計画の第1歩として庄川水利権を申請した。
1920年(大正9年)砺波市出町に庄川の水による富山県で第1号の水道がひかれた。
1926年(大正15年)庄川流木事件が起こった。(1933年(昭和8年)和解した)
1930年(昭和5年)小牧ダム、祖山ダムが完成した。
1934年(昭和9年)大雨で増水した水が庄川の堤防を5か所で破壊し、大洪水となった。
1939年(昭和14年)庄川合口堰堤(合口ダム)が完成し、併せて庄川左岸の合口用水水路が完成した。
1940年(昭和15年)国による大規模な改修工事がはじまった。
1940年(昭和15年)庄川右岸の合口用水水路が完成した。
1948年(昭和23年)温泉法が誕生し、庄川温泉が富山県の認定温泉第1号となった。
1952年(昭和27年)御母衣ダム・御母衣第一発電所の建設計画がはじまった。
1953年(昭和28年)大雨と雪どけ水が一度に流れ出し、大洪水がおこった。
1961年(昭和36年)御母衣第一発電所からの送電がはじまった。
1966年(昭和41年)庄川が一級河川に指定された。
1969年(昭和44年)利賀川総合開発がはじまった。
1973年(昭和48年)千束ダムが完成した。
1990年(平成2年)水記念公園の施設が完成した。
1993年(平成5年)境川ダムが完成した。
2002年(平成14年)小牧ダムが国の有形文化財に指定された。
2004年(平成16年)庄川合口堰堤が国の有形文化財に登録された。

流送夫の仕事

 山林で切り出した木材を、下の川に落として川の水の流れで運ぶ方法を「流送」といいます。豊かな山林が広がり水量の多い庄川流域では、昔から林業が営まれており、木材輸送の流送がおこなわれてきました。庄川上流の飛騨、白川、五箇山の豊富な木材を切り出し、庄川の金屋や青島の貯木場に運ぶのが流送夫たちの仕事でした。  流送夫は20~30人で1つのチームとなり、伐採した木材を山林から運び出し、庄川の流れに乗せ、貯木場まで運ぶところまでを仕事としていました。流送の仕事は約5か月にもおよび、その間チームは共同作業、共同生活をしていました。  流送は、木こりが切り出した木材を山林から川辺へ運ぶ「山出し」からはじまります。険しい山中に木製のレール(木馬道)を造り、その上で木材をソリに乗せて運びました。8千本~1万本の木材を川辺に運ぶには、約2か月もかかったそうです。なお、木材が山の奥深くにある場合は、谷川の流れを使って庄川まで流して運ぶ「谷出し」という方法がとられました。

木馬道

 庄川から貯木場までは木を一本一本バラバラにして川に流しました。そのあと流送夫たちは川船に乗り流木の様子を見つつ、岩などに引っかかった木材は流送鳶を使って器用に流れに戻しながら、流木と共に川を下ります。この工程を「川狩り」と言います。

川狩り

 貯木場が近づくと、最後は用水路で流木を貯木場に流し入れる「土場(貯木場)入れ」です。貯木場への水路入口には丸太で組んだ川倉を造り、流木と水がうまく流れるようにコントロールしました。  流送夫たちの仕事が終わるのは12月~1月にかけてです。無事に仕事を終えた彼らは、家族と共に2月正月を祝ったのです。

土場入れ

青島貯木場

 青島貯木場は、庄川左岸二万七千石用水の赤岩付近の取入口から約1,600メートル下流の用水右岸青島松川除地内にありました。これは加賀藩の金屋御囲地よりも木材の運搬に適していたからです。明治7年から川下げが始まり、1879年(明治12年)頃には年間の伐採材積は15万石余にものぼりました。最盛期には8,000坪の臨時置場も設けられ、明治、大正、昭和と飛騨方面からの流木が続きました。

小牧ダムと流木事件

浅野総一郎

 小牧ダムは水力発電用のダムとして1930年(昭和5年)に完成しました。数々の会社を経営し力を持っていた浅野総一郎が庄川水力電気(株)を創設し、事業が進められました。大正から昭和初めにかけて建設されたダムの中でも小牧ダムは国内最大規模であり、建設当時は「東洋一のダム」と呼ばれ、ダムとしては初めて国の有形文化財に登録されました。その発電力は日本の近代化に大きく役立った一方で、ダムの完成までにはさまざまな問題がありました。中でも社会問題にまで発展したのが「流木事件」です。  浅野総一郎が本格的に工事を開始したのは1925年(大正14年)になってからのこと。工事が進んでいく一方で、庄川流域の住民の間では流送や漁業ができなくなるのではないか、農業に使う水が取り入れにくくなるのではないか、といった不安からダム建設反対運動が起こっていました。そのような中で翌年、流送への悪影響を心配しダム建設に反対する飛州木材(株)が、県知事を相手に「発電工事認可取消し」の訴訟を起こし、これが「流木事件」のきっかけとなります。その後、1933年(昭和8年)の和解に至るまで電力側と飛州木材側の間で激しい訴訟合戦(時にはケガ人が出る事態にもなりました)が続くことになりました。  一時は飛州木材側が工事の中止に成功することもありましたが、問題が長引くにつれて飛州木材側内部でも工事反対派と、電力側との対話を求める側が対立するようになります。その後は、富山・岐阜両知事が間に入るなどして話し合いが続けられ、電力側も飛州木材側も全ての訴えを取り下げ和解したことで流木事件は解決しました。

上田又一~金屋地区の耕地を2倍にした男~

 上田又一は東山見村長を務め、藩政時代からの願いだった、水不足の金屋地区に用水を引く計画を実施した人物です。  1915年(大正4年)に発表されたこの計画は、庄川上流右岸の利賀谷の水を庄川に木樋をかけて左岸に引き金屋まで7kmの用水路を掘るというものでした。しかし、これは費用や工事技術の問題があり実現が難しい計画でしたが、小牧ダムの建設によって状況が変化します。  1916年(大正5年)、小牧ダムを建設した浅野総一郎と話し合い、ダムから農業用の水を分けてもらうこととなりました。これにより、利賀川から水を引く必要がなく、庄川を横断する樋も不要になるなど、課題が解決し、用水の引き入れが実現しました。  念願だった夢が叶い、金屋地区では水田が50ha増え、毎年150トンの米不足だったのが逆に180トンの増収となりました。水不足の悩みから解放されたことで、生産量も増え農村の生活安定に大きな役割を果たし、現在では事業所や住宅が建つようになりました。  彼を称えるために、水記念公園内駐車場から見える高台に上田又一顕彰像(作齋藤尤鶴)が建てられ、像の前では毎年感謝の集いがひらかれています。上田又一は、高台から今も人々と庄川を見守っています。

上田又一

庄川の用水と合口ダム

 用水とは、生活や農業などで使う水を川から引き入れたりダムに貯めたりすることを言います。この水を流すための通路が用水路です。  庄川の用水は、時代によって変化してきました。江戸時代、加賀藩は水害が起きないよう庄川の治水をおこなう一方で、農民たちに積極的に農業をするようすすめていました。そのため、農民たちは新たな田畑を作るようになり、それとともに水田に水を引くための用水路も整備されていきました。庄川の左岸には、山見八ケ用水・新用水・鷹栖口用水・若林口用水・新又口用水・舟戸口用水・千保柳瀬口用水・二万石用水などたくさんの用水路があり、鎌倉時代に開設したと伝えられる水路もあります。長い歴史の中で少しずつ庄川周辺が開発されていったことがわかります。  川から水を引き入れる際には、水をせき止めて水の量を調整する取水堰という入口を通って用水路へ水が流れるようにします。昔の取水堰は、竹かごに石を入れた蛇籠が並べられ、水をせき止めるために丸太で組んだ川倉が造られました。川倉には大きな三角錐型をした「聖牛」や、やや小型の「鳥足」、聖牛の重しや護岸のために「蛇籠」が使われていました。  近代になってからは小牧ダムが建設されたように、新しい形で河川が使われるようになりました。その一つが、水の取り入れ口をまとめる合口化のために作られた庄川合口ダム(1939年(昭和14年)完成)です。ダムの完成によってダムに蓄えられた水を共同の農業用水として使えるようになりました。そのため、用水に使う蛇籠などの道具を何度も修理する必要がなく、日照りによる水不足の心配もなくなり、農業用水を安定して確保できるようになったのです。

1803年(享和3年)庄川両縁用水取入絵図(個人蔵)